前島密について

郵政の父 前島密翁

生年月日 天保6年1月7日(旧暦)1835年2月4日(新暦)
出生地 越後国頸城郡下池部村
没年月日 1919年4月27日(満85歳没)
死没地 神奈川県三浦郡西浦村大字芦名
   浄楽寺に墓所

前島密翁の略歴

前島密翁は郵便事業の基礎を確立した「郵便の父」として広く知られるほか、鉄道、海運、新聞、教育など多方面に功績を残した人物であった。明治44年、密は浄楽寺の境内の一部を借り受け別邸を設け隠居した。密は大正8年この山荘で85歳の天寿をまっとうした。墓は寺の境内の高台に立つ。ここは前島夫妻の富士見のスポットであった。西洋風の墓は富士山をかたどる。

前島密翁の事績

おおくすエコミュージアムの会による解説

・漢字廃止を建議
慶応2(1866)年に「漢字御廃止之義」という建議書を将軍徳川慶喜に提出した。国民の間に学問を広めるためには難しい漢字の使用をやめるべきだという趣旨。その後も、国語調査員としてこの問題に取り組んだ。

・江戸遷都を建言
明治政府が首都の場所を検討している中、慶応4(1868)年に大久保利通の大阪遷都論に反対し線とは国の中央である江戸にするべきと主張した。その年江戸は東京と改められ江戸城は皇居となった。

・鉄道敷設の立案
大隈重信から命じられ当時資料がなかった日本で精密な計画案を作成した。後にこれを見た外国人はそのあまりの正確さに驚かされたという。品川横浜間に鉄道が仮開業したのは明治5(1872)年5月、新橋横浜間の正式開業は9月である。

・郵便創業
前島密の発議で明治4年郵便事業が開始された。明治3年から11年間、官僚としての他職をこなしながら郵政の長として事業の育成に当たった。「郵便」や「郵便切手」などの用語も彼の選択した言葉。郵便の父としてたたえられている。

・新聞事業の育成
前島密は欧米社会から学び新聞の必要性を痛感しその発達を助ける為に明治4年に新聞雑誌の低料送達の道をひらいた。翌5年には自ら出版者を勧誘し郵便報知新聞を創刊させている。また明治6年には記事の収集を簡単にするため新聞の原稿を無料で送れるようにもした。

​・陸運元会社を創立
江戸時代から運送業務・信書送達を担っていた定飛脚問屋が郵便事業に反対していたため説得する為に日本通運株式会社の前身となる陸運元会社を設立した。郵便輸送を中核として貨物専門の近代的な通運会社として発展を遂げた。

・海運政策の建議
・郵便為替を開始
・郵便貯金を開始
・訓盲院の創立
・勧業博覧会の開催
・日本海員掖済会の創立
・東京専門学校の創立(早稲田大学の前身)
・電話の開始

日本に一つだけの郵便ポスト

”郵便の父”として知られ、横須賀でその生涯を閉じた前島密翁(ひそか)。没後95年記念事業として、胸像を乗せた郵便ポストが同氏の眠る浄楽寺(芦名2の30の5)の一角に設置された。「日本文明の一大恩人前島密翁を称える会」が計画し、日本郵便株式会社などが協力する。
ポストの設置したのは、郵便局退職者らで作る「日本文明の一大恩人前島密翁を称える会」。青銅製で、実際に投函もできる。没後95年記念事業の一環で日本郵便と共同で進めており、同寺の一角に設置された。以前から「前島氏と縁あるこの地に特別なポストを」という計画はあったが、同寺の前には秋谷郵便局のポストが設置されていたため実現しなかった。同郵便局の移転に伴いポストが移動したことを受け、計画が具体化。同会の吉崎庄司会長は「長らく温めていた記念事業。近代郵便の父だけでない前島密の功績を知るきっかけになれば」と話す。2016年11月に設置され現在も利用されている。​※横須賀市タウンニュース参照

現代社会の父

前島密翁は「郵便の父」と言われ、郵便局の制度を作ったのだろうということくらいは知っている人も多い。しかし、前島翁密の事績を見ると、現代社会の基礎を作り上げたと言っても過言ではない。明治時代の社会の転換期にどれほどの努力が実現をう促したのであろう。前島密翁は、引退後に浄楽寺の境内に徐々山荘という本宅を構えて住していたようだが、浄楽寺の本堂を使って、地元の小学生に勉強を教えていたこともあるようだ。まさに寺子屋なわけだが、引退後も教育に関わるなど、日本の未来を「希望あるもの」にと、燃える熱き人であったのだろう。「前島密を讃える会」という郵便局長やOBで構成された会が、毎年墓前祭を開催している。300名ほどの会員が集まりご供養にあたるのだが、自分の遠い後輩に供養していただくことができて、きっとお浄土で前島密翁も喜んでいる事だろう。

前島密翁の墓をお参りしながら運慶仏(国重文)を拝観する
まずは拝観案内をご覧ください。

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