生誕 生年不詳
死没 貞応2年12月11日(1224年1月3日)
墓所 鹿児島県宝満寺
仏師 浄楽寺仏像を彫像した仏師。日本で一番有名な仏師。作品は東大寺南大門金剛力士像など。
運慶 その人
教科書にも載る大仏師運慶は、「美の巨匠」、「天才仏師」、「日本のミケランジェロ」などと現在でもいやが上にもその評価は高い。
それは古代から中世までの仏像の名作は少なからずあるが、運慶ほど人の心を騒がせる仏師はそういないからだともいわれる。
運慶作品の特色の一つはリアルさ(写実性)にあるとされる。
その代表的なものが興福寺北円堂の無著・世親像である。
この像もまるで生きている人間のように見事である。
また、奈良の円成寺の大日如来像のひきしまった若々しい体躯からは生気が伝わってくるようでもある。
また、運慶の仏像の特徴は、その肉付きのよい体躯は重量感に冨み、そこから力強さやエネルギーの強さが感じられることにもあるともいわれる。
このような圧倒的な量感が現れる運慶の作風は東国の武士にも受け入れられたこともあって、運慶の作品は意外と東国に多い。
これはおそらく、運慶がまだ興福寺の役職でありながら円派や院派に後れを取っていたころに、鎌倉の動きに合わせて、また成朝の動きにつられて、東国武士を皮切りに自らの実力を開花させていったこともあり、運慶は東国にて自らの作風と技術を確立させていったからであろう。
仏像彫刻の革命児
運慶は奈良仏師の本流・康朝の弟子、康慶の子に生まれた。
康朝には跡取り息子がいたが、康慶が実力で棟梁を継いだのだ。
そんな父の元で修行を積んだ運慶も次第に頭角を現す。
鎌倉幕府の有力者たちに認められ、東国の多くの仏像を作ったことをきっかけに、その実力は天下に知れ渡った。
その後、院派・円派の本拠地京都にも進出し、1197(建久8)年、東寺の仏像修復を慶派一門で引き受けるなど、勢力を拡大していく。
そして1203(建仁3)年、奈良県東大寺南大門の金剛力力士像製作の後、ついに仏師の最高位である法印にまで上り詰めた。
運慶彫刻の最大の特徴は、それまでの仏像にはない生き生きとした表情や動きを表現したことで、運慶は荒々しく情熱的に彫刻に挑んだ。
浄楽寺所蔵運慶作文化財
寺伝で本堂に安置してある仏像は勝長寿院の「成朝作阿弥陀三尊」とされ、国宝指定されていた。
大正時代に国宝の基準が変わったため一度国宝指定はなくなったが、大正15年に阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩)のみ国指定重要文化財となった。
その後、昭和34年仏像研究の久野健氏による調査が行われ、毘沙門天の胎内から木造月輪形の銘札が発見され、続いて不動明王の胎内にも同様の銘札が発見された。
三尊の胎内には同様の銘札は確認できなかったが、胎内に同様の筆跡で陀羅尼(お経)が墨書きされていたことで5体全てが運慶作の仏像であることが決定付けられた。
昭和45年に横須賀市・神奈川県・国の協力の元、仏像を納める収蔵庫が建立され、その後昭和50年不動明王・毘沙門天も同様に国指定重要文化財になった。
現在運慶作の仏像は全国でその真作とされるものが17体。
そのうちの5体が浄楽寺収蔵庫に安置されている。
神奈川県内では鎌倉大仏のみが国宝になっているので、横須賀にも国宝をという活動が横須賀市を中心に展開されている。
阿弥陀三尊像を中央に、脇侍に慈悲の菩薩である観音菩薩、智慧の菩薩である勢至菩薩が。
向かって右に厄除不動明王立像、向かって左に開運毘沙門天立像が安置されている。
玉眼と彫眼の使い分けが運慶の信仰心がうかがえる。
不動明王、毘沙門天には玉眼が施され、身体の豊かな動きも運慶の特徴ともいわれる写実性に富んだ表現となっている。
浄楽寺の運慶作仏像が銘札の発見により運慶作と決定づけられてから多くの文化財が発掘された。
いわば浄楽寺の仏像は運慶文化財の中でも転換期ともなり得る発見であったとされている。
浄楽寺を境に運慶独自の工法や表現が変わっていることもあり、その後の仏像の元ともなる重要な仏像であることがわかる。